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ALANET 社長ブログ

京都唯一のスーツメーカーの二代目社長の
ファッションと映画の今昔歴
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チョットまじめな話
 当社には、なぜか札幌に支店がありました。当の私にも不思議でした。私がまだ営業で、あちこち回っていた頃、どこのお店へ行っても、良く聞かれました。「東京や福岡ではなく、なぜ札幌に支店があるのですか?」と、、、、
初対面の人なら、誰だって疑問に思うと思います。そのたびに、私自身もよく理解していなかったので、なにやら、わかったようなわからないような、訳のわからない返事をしておりました。
実は、昨年の暮れに売買が成立し、やっと肩の重荷が降りましたので、そのことに関し書こうと思います。今から書くことは、たぶんそうであったであろうと思われる私の推察で実際には、そのとき、私は会社に居りませんでしたので大半は想像の話です。それと、わが社の恥をさらすようで、チョットしのびがたいものはありますが、ひとつの区切りとして私も改めて認識しておく必要があると思ったのと、それを何か記録として残しておきたいという思いがありました。

 まず、その最大のなぞである「なぜ札幌なのか?」という点から説明しましょう。

それは、昭和42~43年頃の話しかと思います。私の親父は若く元気でバリバリのときの話です。戦後すぐに会社を創業し商売も軌道の乗っており、すべて順風まんぱんの状態だったと思われます。
 その頃私はまだ学生でしたので何もわかりませんでした。創業当初から当社に在籍されていた方が、大変元気な方で全国アチコチへと出張されていたようです。まったくファッションとは無関係のような方でしたが販売に関しては大へん熱心な方で私も良く覚えております。
その頃は、この業界の様子は今とまったく違いスーパーも量販店もコンビニもなく、今の日本を埋め尽くしている中国製などまったくありませんでした。製造した商品は良い悪いは別にしてスムースに販売できていたようです。チョット良い背広が欲しいと思えば、お誂えするか、百貨店か高級専門店しかない時代でした。
 ただいまと違うのは、都市と地方の格差がものすごく大きく大半の地方の方は都会にあこがれるという社会状況でした。また逆に都会の人たちは地方の人たちに対して「いなかもの」(すみません)扱いし、優越感みたいなものを抱き常に差別意識のような感情を持って接していたようです。

  まるで、今の中国や北朝鮮みたいですね、、

そんな頃、当社は関西を中心に主に西日本の専門店に商品を卸していたようです。都市の一流店になればなるほど、よく売れるのですが競争も激しく値段が非常に厳しいです。親父はプライドの高い人間でしたので商売に行って値切られることを大変嫌がりました。
 製造した商品が100パーセントその年に売れるわけがありません。本来ならば、製造した商品はその年で売り切らねばなりませんが、どうしても残ります。残れば値段を下げねばなりません。わずかな数なら、それでも良いのですが2割も3割も残すと大変です。その頃は、今のやり方と少々違い最後の1点まで適切な利益がないと売らないと言う考えが一般的でした。
 日本がまだ貧しく、今のように物があふれる時代ではなかったのです。今から思えば当たり前ですが、値段というものは、タバコや切手と違い思うようにはいきません。まして、残ったからといって見切るなんてとんでもないことです。
ですから、昨年の在庫をプレスしなおしたり、下げ札を付け替えたりして旧品でないように見せる化粧直しをするのですが、なかなか思うように値段が通らないのです。

   「何や、コレ去年の商品やないか!半値八掛けや!」

といわれ、どうしても値段をたたかれるのです。型も、素材もさほど変わらないのにお得意先でぼろくそに言われ値段をたたかれます。そこでいつも親父は怒っておりました。何とか良い方法がないかと、、

   そのとき親父はひらめいたのです。  (きっと)

都市と地方の大きな格差を利用して新品は都市の洋服屋さんで販売し残りはすべて地方へ持っていくのです。そうすれば、都会の洋服屋さんに対しては毎シーズンすべて今期商品ばかりを販売することとなり、当然値段は通ります。また残った商品はすべて地方の洋服屋さんへ持っていくのです。もちろん、その地方の洋服屋さんには旧品とは言いません。地方のお店は、不思議と都会に対してなにか劣等感的な感情を抱いており、チョット見栄を張ってよい値段で買ってくれるのです。都会の洋服屋には負けられないという対抗意識があったのでしょうね。
 そのようなやり方で7割は都市の店で、残り3割を地方で売り、ありがたいことに100パーセント値段は同じ卸値です。

   その在庫処分の先が北海道だったのです。

今の世の中、多少の地方色はあるものの日本全国みんな同じですが、その頃、北海道は、まるで未開の土地のような扱いだったようです。北海道には失礼ですが在庫処分に適した場所だったのですね。物のないところへ、相手の喜ぶように商品を供給してあげるのですから、お互い利益がある取引です。ただし、遠隔地ですから運賃等多少余分に経費がかかります。

   さらに、もうひとつの訳がありました。

その頃、北海道へ出張で行かれていた、その方がお得意先で良縁に恵まれたのです。定期的に訪問しているうちにご主人と心安くなり、縁談が発生したのです。そして、見合いをされ、お互いにすぐに気に入りその札幌の女性と結婚されたのです。

   縁とは不思議なものですね。

結婚後、その女性を京都へは連れてこずに札幌に居を構え、そこを札幌営業所としてスタートしたようです。もちろん、その家は借家ですが、会社の経費で家を借り、そこへ商品を送り営業所 兼 社宅ですから一挙両得です。その方にとっては家賃がただの新婚ハネムーンです。
 そうして順調なスタートを切ったしだいです。あくまでも、想像ですが、その頃は大変調子が良かったようです。しばらくして、札幌駅の近くにある繊維卸センターの一角に売り物件が出たので、当然すぐに飛びついたのでしょう。
 その頃、繊維卸センターは飛ぶ鳥落とす勢いの繁盛ぶりで、アパレルのほとんどの一流メーカーが入居しておりました。つまり、繊維卸センターに店を構えていることがステータスだったんです。

   ところが、、、

この40~50年で、いろんな変遷があり、世の中が大きく変化し繊維卸センター自体が今の時代に流れに取り残された存在となってしまったのです。その間、当社もいろんな出来事があり、もうそこにいること自体が苦痛な状態となってしまいました。その札幌支店をスタートされた方も15年ほど前に定年で退職され、次に引き継がれた方はものすごく努力家で会社のことばかり常に考えわれわれも感心するほど、がんばっておられたのですが、不幸にも50歳過ぎで病死されました。

   それ以来は転落の一途です。

早く撤退したいと、ずうっと思っておりましたが、親父が札幌に店を出した時の気持ちを思えば、なかなか簡単には手を打てませんでした。それが、やっと昨年の12月に売買契約が成立したのです。

   やれやれです。

親父のあとを継いで何か半分ほど責任を果たしたような気分になりました。在庫処分の先という、きっとその当時はそれでよかったのでしょうが何か正攻法でないように思われます。とはいうものの、私も偉そうなことはいえません。ドンドン繁盛し店を増やしていくならいざ知らず、唯一ある札幌支店を売却し、札幌の市場から撤退したのですから、後ろ向きとしか言いようがありません。
 しかし、この売却益をもって何とか会社を維持し、また世代交代し、将来の方向性を変更するターニングポイントになればと思っております。われわれのような小さな会社でも従業員やその家族、そして、取り巻く関連の企業に、なくてはならない存在として、たとえわずかでも社会的貢献をしなくてはなりません。

会社が長く存続し、100年をめどに老舗企業となるために、その礎となればよいと思っております。また、この札幌支店の話は当社の歴史としてとどめておきたいという気持ちがあったので恥を忍んで私のブログで公表したしだいです。ただし、細かい点は、たぶんそうであったのでは、という想像です。

   つまらない話に、長らくお付き合いくださいました。ありがとうございました。































































































 
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