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ALANET 社長ブログ

京都唯一のスーツメーカーの二代目社長の
ファッションと映画の今昔歴
今年1年を振り返って
 実は弟は、10月28日になくなりました。昨日、四十九日の法要を済ませたところです。前回のブログで子供の頃、弟と二人で遊びに行った夢の話を書いたのですが、まさかその月末に逝ってしまうなんて思いませんでした。
それから、チョットブログを書く気がおこらず2ヶ月ほどサボってしまいました。今のところ、まだ辛いので、弟のことは書きませんが時間が経過して気持ちが緩んだら又書こうと思います。

   何か今年一年はものすごく早く経過したように思います。

としをとると時間の経過が早く感じられるとよく言いますが、まさにそれ以上です。あまりにも、漠然とすごしてしまって反省仕切りですが、ざっと今年1年を振り返って見たいと思います。

   一月
昨年末に、少々臨時収入があったので内緒(?)で又、時計を買ってしまいました。ほんのチョット余分に収入があると何かものすごく儲かったような気がして、気持ちが大きくなり金額的にはわずかなのに何でも買ってやろうと思い、気持ちだけがドンドンエスカレートして結局高い買い物をしてしまいました。自分でも、つくずくアホやなあと思います。
 それはブレゲのトランスアトランチィックというスポーツタイプのものです。ちょっとカジュアルな服装の時には、やっぱりこんなのがひとつは必要であると自分の心の中で言い訳をし、思い切って買いました。今もはめていますが、さすがブレゲです。
めちゃめちゃ正確でアナログなのに、まるでクヲーツのようです。大変気分がいいです。

   二月   バレンタインのチョコレートです。
いくつになっても嬉しいものです。そしてギリチョコだと分かっていても嬉しいものです。そして、そのチョコを頂いたら余分に高くつくと分かっていても嬉しいものです。いずれにしろ、この年になって若い女性からチョコをいただけるということは誠に喜ばしいことです。

   七月   おやじの17回忌
生前は、いつも怒っていました。そして私は、いつも怒られていました。顔を合わすたびに文句を言われていました。わたしは、いつも腹が立っていました。しかし、なくなってから思ったのですが、やっぱり私のためと思って私に厳しくしていたのですね。もう遅いですが、もっと素直に、もっと良い子でいたらよかったと思います。良い年をして反抗期でした。
いつも、いつも怒っているおやじでしたが、たまに見せるおやじの笑顔は今でも忘れられません。

   七月のモウひとつの出来事


ペペがきました。ちょうど、モウ半年ほどですが元気に毎日狭い家の中を走り回っています。まだ子供なので、大変いたずら好きです。ナナがなくなってからの、この数年間は何か寂しいものがありました。隅のほうから、ふっと出てくるような「錯覚」をいつも感じていたのです。ずっと家の中が暗かったです。ところが、ペペが来てくれて家がパッと明るくなりました。

   毎日、悪いことばかりします。

スリッパや椅子の角をかじったり、おしっこをチョットかけたり、ソレを見て家内が追い掛け回しています。モウすっかり家族の一員となりました。

   八月から十月
とうとう長年の願いだった当社の札幌支店が売却でき、すべて入金が完了し、ほっとしました。開設当初はきっと良かったのでしょうが、長年「あしかせ」になっておりました。大金が、入ったといっても気を緩めてはあきません。強く心に言い聞かせ、気持ちを引き締め、がんばります。
 大手術をして、ガンを摘出して退院したような、爽快な気分を味わいました。

   十月
弟が亡くなりました。今はまだ、あまり詳しくは書けません。又時間がたち気持ちが落ち着いたら弟への思いを書くつもりです。

   十一月
宇多野病院に四日間、入院しました。定期的な検査入院です。以前も入院中の出来事をブログで書きましたが相部屋で他の人に気を使うのも意外としんどいので、チョット贅沢かと思ったのですが個室にしていただきました。前回の入院の時は大変な経験をしたのです。夜中の徘徊、隣の患者さんのイビキ、認知症のかたが大きな声でわめきちらし大変でした。個室にしていただいたお陰で、本当に快適で、穏やかな四日間を過ごすことが出来ました。テレビは一切つけず1日に二三回ある検査の間はずうっと本を読みました。徳川家康の伝記ものと松本清張を三冊読みました。
 ソレとは別に自慢するほどのことではありませんが、贅沢をせず四日間すべて病院の食事を食べました。退院してから、その帰り道で食べた、いつもの行きつけの蕎麦屋のざるそばの美味かったこと。

そんなこんなで、今年一年はあっというまに終わりです。忙しかったから出来なかったとか言うような言い訳は一切せず、来年はもっと時間を大切にして充実した一年にしたいと思います。

   毎年、年末に同じようなことを言っているような気がします。










































 
| - | 15:05 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
あまり良くない「夢」の話
 黒澤明ではないのですが、又夢の話で恐縮です。

   夢は本当に不思議ですね。

見ようと思っても、なかなか見られませんし、又自分の好みの夢もそう簡単には見られません。ソレと、たびたび同じような夢を良く見ます。しかし私は寝汗をかくような悪い夢を見て飛び起きるような、そんな経験は一度もありません。

   たいてい、何気ない話ばかりです。

私は自分が見る夢に興味があり(家内にはぼろくそに言われますが)自分なりに自分の夢の分析をしているのですが、多少解明できたことがあります。ソレは人には言えずいつも自分の心の中だけで気にしているようなことを夢でよく見るようです。そして、その夢の中の話は子供の頃と現在とが、いつも一緒くたになり私の子供の頃の話なのに、そこに息子が出てきたり又最近では孫の拓郎までが登場したりするのです。

   面白いですね。

ひと時の間、時間つぶしと思って、つまらない私の夢の話にお付き合いください。

つい最近見た、やや長編の夢の話です。いつも私はあまり夜中に眼が覚めるということがないのですが、その日はたまたま夜中の三時半ごろ目が覚めました。めんどくさいけれど一度トイレにいって又寝なおそうと思い一大決心で起き上がり、眠たい目をこすりながらトイレに行きました。本当はそんな大そうな話ではないのです。

   私の部屋の横がトイレです。

すっきりした気持ちで床に入り直ぐ寝られました。元々私は寝つきの良いほうで横のなったらすぐ寝られます。いつも家内に言われます。

   「あんたは気楽やなあ」  そのとき見た夢の話です。

(確かに気楽です。夢で見たなんでもない話をわざわざブログで書くのですから!!)

ソレはいつごろの話かは、分かりませんがきっと50年ぐらい前の話だと思います。弟と二人で電車に乗って神戸へ行くのです。
(ソレと不思議にこのごろ弟と子供の頃遊んだ夢ばかり見るのです。)
学生の頃だったと思いますが、弟とよく神戸の高架下商店街に行きました。そこには米軍の払い下げ物資が沢山売られており、チョット気の利いた店にはアメリカ製のチノパン、Tシャツ、スタジャンそしてジーンズなどいっぱいありました。

   みんなMADE IN USAです。

アメリカの東海岸の学生のファッションがたまらなく魅力的だったのです。今から思うと敗戦国の日本が勝戦国のアメリカの文化にあこがれるなんて不思議ですね。きっと日本人全部がアメリカに洗脳されていたのでしょう。
 オックスフォード地のボタンダウンのシャツを着てリバイスのジーンズやデッキーズのチノパンをはいて、靴はバスかセバゴかボストニアンのローファーです。オールデンやフローシャイムは学生にはちょっと贅沢です。

   いわゆるアイビールックです。

一ドル360円の時代だったのでアメリカ製のものはなんでも高嶺の花でした。そのとき急成長したのがバン ジャケットです。今もそのアイビールックはファッションの基本にさえなっております。私の心の中で、きっとそのころの印象が強く残っていたのだと思います。

せんど神戸の町を弟と二人でウロウロし、かえりの電車に乗るころには、もうだいぶ日がくれかけていました。慌てて、電車に乗って京都についたときは、もうすっかり夜になっていました。しかも、雨が降っているのです。不思議なことに到着したのが今はモウ走っていない市電の停留所で、きっと四条河原町のような景色でした。タカシマヤの前なのに交通量も少なく今とはだいぶ違う雰囲気です。傘を差して歩いておられる人の服装が、どうも昔ぽいのです。雨が強く降ってきたので、大急ぎで家に向かったのですが、次に現われた場所がなぜか反対方向の清水の参道の坂の途中です。今も昔もその場所にそんなものがあるはずがないのですが、その清水の参道に「うどんや」が何軒も並んでいるのです。その清水も弟とよく行った場所です。
私も弟も、うどんや蕎麦が大好きです。弟が

   「腹減ったし、うどん食べよか!」  と言いました。

早く家へ帰らないと怒られるとヒヤヒヤした気持ちを夢の中で感じながら、こんなところにうどん屋が何軒も並んでいるのだから、お腹も減ったことだし、うどんを食べようと言うことになり5−6軒ある中の一番こぎれいな店に入りました。弟いわく

   
   「えらいはやってるなあ!」

あまり人が多いので、とりあえず、うどんを注文して私と弟は店の外においてある椅子に座って食べました。面白いことにそのうどんの味まで夢の中でリアルに感じられたのです。今の時代、たとえ立ち食いうどんでも、どこで食べても、大概おいしいですが、その夢の中で食べたうどんは素朴なまったく昔の味でした。値段も安くきつねうどんが35円です。お腹が減っていたこともアリ、大変おいしかったです。

   「ああ、モウこんな時間や。はよ帰らんとおっさん怒りよるで!」 と弟が言いました。

慌てて二人で走りました。ところが、着いた場所が50年タイムスリップして今の会社なのです。遅くなって帰ったら又おやじに怒られると言う気持ちを夢の中で引きずったまま到着したのがなんと現在の会社なのです。おやじは平成10年になくなっていますので、いるはずがありませんが、しょちゅう怒られていたので頭の中には、また怒られるという意識が残っているのでしょうね。「また怒られたらかなん」と思い「ただいま」を言いに行かねばと会社の裏口から外へ出ると再びタイムスリップし昔の景色に逆もどりしました。昔は会社の裏に家があり、そこにおやじが住んでいたからです。

   「はよ、いかなアカン」 と慌てているときに目が覚めました。

ちょうど朝の6時過ぎで、いつも私が起きる時間です。

   「なんや夢か。けったいな夢やったなあ!」と思いました。

誠につまらない夢の話ですが、話の筋があまりにも鮮明だったので念のためにもう一度今見た夢を思い起こしました。その中で確実にひとつだけずっと気にしており、しかし人にはあまり言えないことがそこには存在するのです。

弟は昨年の七月に肺がんを宣告され余命半年といわれました。それ以来入退院を繰り返し今日に至っておりますが、本人はとりあえず寿命が一年延びたと言っております。

私と弟は二人兄弟で、しかも二人とも親の後をついで今日に至っております。おやじが生きていた頃はさほど感じませんでしたが、おやじがなくなってから、どうあっても二人で会社を守っていかねばならないという意識があり以前よりいっそう兄弟という血のつながりを強く感じました。弟とは口げんかはよくしましたが絶対私には、逆らいませんでした。常に、兄である私をたててくれ、すべて私の判断に従ってくれました。二人三脚でやってきたのですから、人には言いませんがいつも弟の病気が気になって無意識に元気だったころの弟の夢を良く見るのだと思います。しかも、その夢の多くは子供の頃二人で遊んだ夢ばかりです。もう65年も共にいるのですから、きっと当たり前なのでしょうね。
昨年の七月以来会社の用事からは一切はずして、治療に専念していますがやはり心配でなりません。

  一日も早く回復することを祈ってます。




































































































 
| - | 11:44 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
熱帯夜はつらい
 朝夕めっきり涼しくなりました。しかし、まだまだ、残暑はあると思いますが、どうやら日に日に秋に向かう気配が感じられます。われわれの商売は着るものですので、どうしても天候に左右されるので、こんなに暑いと売れません。
昔のように盆が過ぎたら涼しくなるなんて考えられません。温暖化は地球全体の問題ですから、日本だけががんばっても、どうにもなりません。

 今日はそんな世界規模の、大きな問題を書こうと思っているのではありません。
 
一言で言うと、どうにもならないグチです。

年々、夏が暑くて辛く、これからも、ずっと、こんな気候が続くのかと思うと、どうしたらいいのか分からないという「ためいき」の話です。

どちらかと言うと、私は夏より冬のほうが苦手でした。むしろ、夏が好きでした。少々暑くても、割と平気で、逆に寒さに弱く、直ぐ鼻かぜをひき、クシャミと鼻水で、いつもグズグズいってます。寒い寒い冬は身にこたえ、ただでさえ動かぬ足がますます不自由になります。そして早く夏にならないかと、暑さが恋しくなります。

   人間は自分勝手なものですね。

以前にも、チョット触れたと思いますが、私は40年前から岩倉に住んでおります。家内も私も中京の真ん中で生まれ育ったのに、よくもまあ40年もこんなところ(?)に居たなあと、思います。結婚した当初、まさか、この歳まで岩倉に居るとは、お互い夢にも思いませんでした。京都の北の端で、大変不便なところなのですが、ひとつだけよいところがあるのです。

   ソレは夏、大変涼しいのです。  (その代わり、冬は雪でたいへんです)

夕方になり「ひぐらし」が鳴き始めると、どこからともなく「冷や風」が入ってくるのです。ただ、ちょっと田舎ですので虫がおおく、いつも網戸は欠かせません。窓を開けておくだけで、快適な夏の夜を過ごせたのです。

良く、友達などに羨ましがられ、家はボロボロですが、夏の夜だけはちょっと自慢できたのです。ところが、さすがの岩倉も今年の夏はちょっと違います。

 今までなら夜、エアコンなど決してつけませんでした。それは節約ではなく、つけなくても良かったのです。連日の熱帯夜に仕方なく、寝る前に一時間タイマーをセットして寝るのです。冷房は冷えて気持ちいいのですが家内が体に良くない言いますので
ドライにして寝ます。そのエアコンのおかげで、いつもすーっと快適に寝られました。ところが一時間経過してタイマーが切れたら暑さで目が覚めるのです。

   「もー!!」と思いながら、

タイマーをセットしなおして寝るのですが、又切れて目が覚めるという、そんなアホな時間をすごさざるを得ない夏でした。
当然、朝の目覚めは良くありません。
どこの家庭もきっとみな同じです。私とこも、隣の家も、又その隣の家も、昼も夜も関係なく一日中エアコンをかけられるのです。節電もへったくれもありません。ますます、温暖化へと加速していきます。

   一体、どうしたらいいのでしょうか?

風邪を引いてもかまいませんから早く寒い冬が来て欲しいです。

   誠にしょうもない話にお付き合いしていただき恐縮至極に存じます。

















































 
| - | 14:47 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
その名は「ペペ」
 ご無沙汰して申し訳ありません。
以前にも何回か、この私のブログで書いた犬の話ですが、彼が逝ってしまってから、なかなか次の犬の事が考えられませんでした。あれは2011年の正月元旦の大雪の早朝にわれわれ家族全員に見守られて大往生しました。息をしなくなり、体がだんだん冷たくなっていくのを感じ、涙が止まりませんでした。18年間、家族のように過ごしてきて彼とのいろんな思い出が、いっぱいあって、そう簡単には消え去るものではありません。4年たった今でも、フットどこかの片すみから走ってくるような気さえします。男なのに、どういうわけか「なな」と言う名前で、その女々しい名前とはまったく反対の大変気の強い犬でした。
 家内も二人の息子も大変犬好きで、この40年間迷い込んできた犬や、拾ってきた犬など、なんかの犬がいて犬のいない空白の4年間なんて考えられないくらいです。
 私の心の片隅で「なな」に対する義理立てがあったのかもしれません。ところがなぜか、この6月ごろから新しい犬がほしいと言う気持ちが、うっすらと、私の心の何処かでわいてきたのです。以前「なな」をつきに1回シャンプーに連れて行った「ドッグアイドル」のおかみさんに電話して相談したのです。

   「なんか、かわいらしい、ええ犬おらんやろか?」

ながねん「なな」を通じ、御付き合いのあった方なので、気心が良く知れ、翌日早速、電話してきてくださいました。

   ソレは7月12日(土)のことです。

土曜日で会社が休みということもあり家内と二人で早速見に行きました。ソノ「ドッグアイドル」のおかみさんが勧めてくれた犬はマルチスでかわいい顔をしていましたが、パット見て何か、相性がよくないのです。ピッピと感じるインスピレーションがないのです。せっかく勧めてくださったので、チョットだけ抱っこして、頭をなでてやったり、お腹をさすってやったりしたのですが、なぜか感じるものがないのです。
仕方なく、その犬をいったん元に戻して、そこに並んでいる沢山の小犬たちをずーっと眺めていたら、目と目があってビビッと感じる子犬が一匹いたのです。いわゆる、恋愛のフアーストインプレッションのようなもので、一目ぼれです。
この犬となら、これから生活をともに出来るなあと直感的に思ったのです。チョットだけ抱っこさせていただいたら、その犬は私に、、

   「宜しく頼みます」  と目で伝えてきたのです。

   「よっしゃ、わかった!!」

その場で、即決しました。家内もはじめ言っていたマルチスと違い、あまりにも早く決めたことにあっけにとられ、「あんたは何時も、ゆうたら直ぐやなぁ」と言っていました。こんなことは、迷っていても仕方ありません。直感で判断するものだと思います。その犬は、生後二ヶ月のミニチュワダックスで、色は白にちかいベージュで毛足の短い本当に端正な顔立ちをした上品な犬でした。体が小さいのに妙に手足だけが大きく感じました。

 我が家に来てもうすぐ一月ほどになりますが、元気にスクスク成長しております。このごろは、慣れてきて、だんだんやんちゃになってきました。

   名前は「ペペ」とつけました。

これから、荒川家の家族の一員として大活躍してくれそうです。


































 
| - | 11:51 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
テレビ好きの老人のたわごと
いつも息子に年寄りみたいに一日中テレビばっかり見ていると、怒られています。確かに以前よりも良く見ているように思います。脚が悪くなってからというもの外へ出歩く機会が大幅に減り、休みの日などは本を読んでいるかDVDを見ているかテレビを見ているか、そんな退屈な時間のすごし方が大変増えてしまったように思えます。自分でも、これではアカンなあと反省しておりますが、いざ出かけても歩けないので家内の足手まといとなり、つい閉じこもりぎみになります。

   単なる年寄りの「ひきこもり」です。

今後のことも考え家内にはよくしておかないと、ほって置かれたら大変です。いざ頼れるのは家内しかおりません。

そのテレビの話題で誠に恐縮ですが、何時も見ているのはほとんどNHKです。決してNHKが好きというわけでもなく、NHKの味方でもないのですが、民放のバラエテイ番組は、許せません。なんで、あんなしょうむない番組ばかり作っているのかがわかりません。又、ソレを見て喜んでいる視聴者にも疑問を感じます。芸人が自分でヘラヘラ笑っているのを見て何が面白いのか?
そのように思うことが、私自身老化したのかも知れませんので、あまりバラエテイ番組の批判はできませんね。

 話を元に戻して、NHKの大河ドラマは大好きです。特に戦国時代のものと幕末から明治維新の話がとても面白いです。毎年、大概見ておりますが何年か前の平清盛は見ておりません。画面が暗く、人物の関連性が複雑で、ソレと主役が好きになれず2−3回で見るのをやめました。

  やはり、台本や演出は大事だと思います。

今年は私の好きな戦国物で「官兵衞」です。1月のスタートからずっと欠かさず見ておりますが大変楽しんでおります。

   ただ、チョットだけ不満があります。

主人公の黒田官兵衛も豊臣秀吉も大変熱演でいいのですが、肝心の信長がどうも私のイメージと合いません。きっと私のわがままだと思いますが私の思い描いている信長のイメージと今年の大河ドラマの信長がどうもあわないのです。もっとも、信長はおよそ450年ぐらい前の人ですから、会ったわけでもないからまったく分かりませんが私の知る限りもっと冷徹で、シャープで、天才的で、かみそりのような人物だったのではないかと思うのですが、このドラマに出てくる信長は優しすぎるのです。
あの戦国時代に日本中の名だたる武将を震え上がらせたカリスマ的な信長像を演じることは本当に役者として難しいと思いますが、もう少し研究して欲しいと思います。

   ニヤニヤ笑っている信長などありえません!!

ちょうど、同時期に1冊の本を一月ほどかけて、丁寧に読みました。私の好きな日本史の、とくに好きな信長の話です。ひょっとして、皆様も読まれたかもしれませんので、その本の内容よりも、感じたことだけを書こうと思います。

   「本能寺の変 431年目の真実」という題名です。大変面白かったです。

今と違って戦国時代はやるか、やられるかの世界で、天下統一をするためには敵対する相手をすべて殺さなければならない時代なのです。相手の大将だけではありません。女、子供すべてです。なんとひどい時代なのでしょうか?
そしてその時代の中でもこの「本能寺の変」が最も面白いです。

なぜ明智光秀は信長を討ったのか?また、黒幕は誰なのか?

徳川家康を接待するに当たって、イロイロと信長にいじめられたからといっても果たしてそれだけの理由で信長を討つでしょうか?私は明智光秀はそんなアホな武将ではなかったと思います。今と違い、情報を伝達する手段が非常に乏しい時代でも割と蜜に連絡が取り合われていたようです。

そんな戦国時代におきたあの「本能寺の変」、ものすごくなぞが多く歴史のロマンを感じます。また、その「本能寺の変」の資料も多くは後世に作られたもので、その時代の政治家の都合のよい資料作りになっていると思われます。まるで、悪者扱いされている明智光秀だって本当はどんな人だったのか良く分かりません。
そして、ケイタイもない時代に信長が本能寺で殺害されたことがあまりにも早く秀吉や家康に伝わったことや、そしてソレを聴いて毛利氏と、にらみあっていた秀吉が驚くほど早く京都へ戻ったこと、光秀が事件後すぐにやられてしまったこと、など
いっぱいなぞがあります。
 そもそも、あんな慎重な信長がなぜ無防備の状態で本能寺に泊まっていたのでしょうか?

話は長くなりますが、もっと私に暇ができたら(今でも結構ヒマですが)この本能寺の変で「もし信長が生き延びていたら」、、というフィクションの話を面白おかしく書きたいと思います。
あの時代に血のように赤いワインを常に愛飲し、自分のボデイガードに宣教師がアフリカから連れてきた黒人を常に横に従え、地球は丸く、世界はとてつもなく広いということを把握していた信長が、また外国の宗教であるキリスト教の布教を認めた、あの信長が、もし本能寺の変をのりこえて生きていたとしたら、、考えるだけでもめちゃくちゃ面白いじゃないですか?

   きっと、江戸時代は存在しません。

なぜなら、本能寺の変は家康を討つために信長が仕組んだものではなかったのか、という説もあるぐらいです。ちょっとだけ、簡単に紹介しましょう。

   「信長自信が仕組んだという説」

その時代、家康はナンバー3で秀吉の次に力があり、いずれパワーをつけて信長の天下統一のじゃまになり、脅威と感じ抹殺する必要があったのです。そして、本能寺で茶会をすると家康を招待し、あえてお互い無防備を装い、そのスキに乗じて家康を討つという策略を信長が立てていたという説です。実は、その本能寺は近くにある南蛮寺というお寺に通じる地下トンネルが掘ってあったそうです。信長はそこから抜け出して脱出する手はずであったのですが、そこえ予定外の光秀が攻め込んできたという話ですが、なんと、映画のような話じゃないですか?
 本能寺を焼き払ってから、光秀は必死に信長の遺骸を探すのですが、とうとう見つけることができなかったそうです。ところが、数日後、ある僧侶が焼け落ちた本能寺へやってきたのです。その僧侶(名前を忘れました)は信長に子供の頃から大変世話になった人で、その事件後、自分の人生を信長の供養にささげたそうです。
光秀が大勢の人間を動員して必死になって、探しても見つけ出すことができなかった信長の遺骸をどうしていとも簡単に見つけ出しお寺まで運んだのでしょうか?
 そのお寺は寺町今出川上がるに今でもあります。

   たまらなく、面白いじゃありませんか。

そして、もし信長が生き延びて天下統一を果たしていたら日本はどんな世の中になっていたでしょう。
結局、失敗に終わった秀吉の朝鮮攻めや、中国やヨーロッパへの進出など今の時代では想像もできない行動を信長は執っていたのではないでしょうか?
 そんなわけの分からない想像を小説にしても映画にしても、きっと面白いと思いますが、歴史学者の方から「おまえはアホか」とお叱りを受けそうです。
しかし、義経が生き延びて東北から北海道を経て、大陸に渡りジンギスカンとなり、二度にわたり日本を攻めてきたという話のようにロマンがいっぱいあって、面白いと思いませんか?

 自分の言うことを聞かない者、すべてを殺してまでも自分の描いた世の中を作ろうとした信長の壮大なビジョンとはいったいどんなものだったのでしょうか?それと、ある日突然、光秀によってそれを阻止された無念さは計り知れないものがあると思います。ワクワクするような話じゃないですか。

   ときはいま、あめのしたしるさつきかな

               単なるテレビ好きの老人のたわごとです。



































































































 
| - | 17:48 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
親父の17回忌に思うこと
 早いもので、今年の7月親父の17回忌です。私は、初詣や、お盆は気になりますが宗教にはまったく関心がありませんし、当家のお墓があるお寺さんと特に親密な関係になろうとは思いませんが、まあ仕方ない行事です。今回の17回忌は何かいつもの法事とはちょっと違ったものを感じますので特別に心をこめて事に挑みたいと思っております。
このような、ちょっとした節目に家族が揃って、たとえひと時でも同じ気持ちになり静かに心を落ち着ける機会があってもいいと思います。ソレは、先祖に対する感謝というような難しいことではなく、家族のコミュニケーションの場だと思います。

 親父がなくなったのは平成10年7月でした。
以前にも、親父のことは何回かこのブログでも触れたのですが、ワンマンで超自分勝手な人間でしたので、なくなってからというもの、あとを継いだ私は大変苦労をしました。何も分からないまま、今日に至るまで、こんな小さな家の当主として、又いつ、つぶれるか分からない零細な会社を、何とかひっぱて参りました。しかし、いまだに達成感というものはありませんが、わずかばかりの幸せを感じております。ソレは二人の息子にとてもステキなお嫁さんが来てくれたことと、孫が二人できたことです。
とりあえず、コレで荒川家として次の世代を引き継ぐべく下地ができました。欲を言えばきりがありませんが、人や世間に迷惑をかけることなく元気で人並みにがんばってくれれば、それでいいです。

   それと、やっぱり孫はかわいいです。

孫ができるまで、そんなことを思ったことがなかったのですが、この子のためなら何でもしてやろうという気持ちになるのがとても不思議ですね。

こうして、家族が増えたことを、親父はきっと喜んでいると思います。できることなら全員揃っている姿を見せてやりたいです。そのためにも、毎年命日には、みんな揃ってお墓参りをしなくてはならないのです。祇園祭も終わり、七月の末で毎日暑い暑いときの法事です。ご存知のように京都の暑さは、只者ではありません。そのためみんなは、お墓参りを早く済ませたいのです。
 最近我が家にデビューした孫の拓郎は暑さそっちのけで、お墓にかけるバケツの水を、ひしゃくで汲んで、あっちこっちに撒き散らし、キャッキャッと言って喜んでいます。水をかけられてびっくりする様子が面白いのでしょう。
カンカン照りの炎天下なので、たとえ少々水をかけられても、直ぐに乾燥するので誰も大して怒りません。ソレを良いことに、どんどんエスカレートして、いちびります。しかし、あんまりはしゃぐとママに怒られます。

   「たくちゃん、もーやめとき!」

 そして、それから本堂で集合し住職のお経を聞くのです。幸いなことに、お寺の住職のお経が短いので助かります。私もたまに経験しますが、もう長いお経は、本当にしんどいです。

お経から開放され、お昼近くになり、お腹もすいたところで、みんなで食事に行きます。

   「和食がええか?中華、イタリアン?なにがええ?」

と、一応各自のリクエストを前もって聞いておきますが、みなの意見が揃うのはなかなか難しいので基本的には私が決めています。でも今年は17回忌ですので何時もよりは、ちょっと、張り込もうと思っています。今や、弟の家族と孫も含めて13名になり大所帯です。そしてこれから、益々増えそうです。

   それと、もうひとつ思うことがあります。

恥ずかしながら私はもう67歳になりました。まだまだやり残している事はいっぱいありますし、決してもう仕舞いとは思っておりませんが、まわりの現実を見ると、やはり人生の終盤戦に間違いはありません。もうとっくに定年退職した友人もいれば、しょちゅう病院の世話になっている友人も居ります。「まだ、わしは大丈夫」と思っていても67歳といえば十分年寄りです。
しかし、人から年寄りやと思われたくないし、又自分でも年寄りであるということを認めたくないのです。

   負け惜しみですね。

しかし、私は自覚しているつもりです。ですから皆に、特に、家内や息子夫婦に嫌われないように、又何事にも、でしゃばらないように、そして、仕事は徐々に息子に引き継がせ、特に、いきなりあれをせよ、これをせよと言うとプレッシャーをかけすぎるので時間をかけてソフトランディングと行きたいと思っています。

そして、およそ後、数年で名実ともに「おじい」になろうと思っております。「おじい」になるのにも心の準備というものが必要です。本当は、そうなることには非常に抵抗はあります。心の奥底で「まだまだ、わしは大丈夫!」と妙な自信があるのですが、ええ歳して、いつまでも、でしゃばっていては、かっこ悪いでしょう。

   今年の親父の17回忌の前に、こんなことをふっと思いました。



















 



































 
| - | 17:41 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
ものを所有しない時代
 子供のころ、よく公園でメンコやビー玉で遊んだものです。今から思えば、良くあんなことをしていたなあと思いますが、もう夕方になって、あたりが暗くなるまで、それに興じたものです。帰りが遅くなって、また怒られると分かっていながら、ヒヤヒヤし、メンコやビー玉遊びに熱中し、勝ったら沢山のメンコやビー玉を友達からゲットできるのです。そして人より沢山メンコやビー玉を持っていることが自慢で友達とそれを見せ合います。とりあえず、沢山ほしいのです。
 どれも大して変わらないのですが、メンコに描かれている絵やマンガに優劣があり、それぞれに交換率が変わります。なかには、10枚出されても交換したくない程、価値のあるものもあったのです。
 皆さんご存知のようにビー玉だって大きさの大小はあるものの、大して差がないのですが、それはそれで、そのころ子供にとっては、たまらなく欲しくて仕方ないものがあり、みんな、そんなメンコやビー玉をいかに沢山所有しているか、それが誇らしかったのです。

 それから、もう少し成長し、中学ぐらいになると、そんなメンコやビー玉は卒業し次は違うものを所有したがるようになります。
   それはレコードです。

 ちょうどそのころフォークソングが大変はやったのです。ヴェトナム戦争が泥沼化し、アメリカ国内で反戦意識が大変高まった社会状況の中で生まれた音楽のようです。

  今でも、耳の奥にずっと残っています。

中学になると、ちょっとすねたり、ひねたりして、生意気になり勉強もさほどせずにニキビ面で親に反抗するばかりで、そのフォークソングのレコードを聴いて、まるで自分ひとりが偉くなったような気分に浸るようです。
そのジャズやフォークのレコードを沢山持っていることが自慢だったのです。本も読まないのに本棚にバアッとそんなレコードを並べて、そのジャケットを見ては、ひそかに微笑んだという思い出をお持ちの方は、たくさん居られるのではないかと思います。
 もともと日本は資本主義の国ですから私有財産が認められています。というよりも、そのころは高度成長で国民すべてが、より多くのものを所有したいという社会状況でした。みんながものを所有したい、物が欲しい、という思いで消費がものすごく活発となり、その原動力で景気が良くなり今日の日本が成長してきたのではないかと思います。

ところが、世の中が大きく変化し、ものを所有しない、ものを欲しがらない時代へとなりつつあります。すべてがそうではありませんが、多くがものを買う時代から借りる時代へと変化しつつあるようです。
 たとえば、先にちょっと触れたレコードの話ですが、レコード自体がもうすでに過去のもので今や音楽はCDで、いや多くの人はスマホで聴いているようです。
映画だって同じようなことがいえると思います。昔はビデオを棚にいっぱい並べて喜んでいたのですが、いまや、それを再生するビデオデッキすら探すのが大変な時代です。
 すべてがDVDに変わってしまい、しかもそれを所有しようとは思いません。

   レンタルで十分です。

私のように同じ映画を何回も見たがる変人(?)でも別にその好きなDVDを持っている必要がないのです。

   ツタヤで借りればいいのです。

さらに進化してオンデマンドがあります。見たい映画を見たいときに配信してくれるのです。まったく所有する必要がないのです。本や雑誌も同じようなことがいえると思います。

   電子ブックです。

本はもう買わなくてもいいのです。もっとも、本屋のあのにおいが好きと本屋でウロウロするのが趣味の人も大勢居られますが、、、
車だって買う必要がありません。借りればいいのです。しかし、レンタカーはナンバープレートが「わ」なので、なんとなく恥ずかしいとか、かっこ悪いとか思われる方はリースにすれば解決します。多少高くつきますが、車検ごとに新車に乗り換えられます。
 
家だってそうです。「男の一生の仕事や!!」とかいって、命がけでローンを組んで必死の思いで家を買わなくても適当なものを借りればいいのです。このごろは家具はもちろんのこと、テレビ、冷蔵庫、洗濯機といった必要最低限の電化製品付の賃貸マンションだっていくらでもあります。そして、家族が増えたり、飽きたりしたら引越ししてマンションを変えればいいのです。
多少経費がかかりますが快適な生活がおくれますよ。

 そのように普通のライフスタイルそのものが、どんどん変化していくように感じます。ものを所有しない、ものを欲しがらない世の中になるのではないでしょうか?そんな中で、これからも我々は商売を続けて行かねばなりません。益々、考えねばならない課題が増えて大変ですが反面やりがいがあるというものです。
 欲しいものを所有したいという人間の心の奥深くにある感情をもっともっと研究しこの難しい時代を生き抜いていかねばなりません。

 そんなえらそうなことをダラダラ書いてきましたが私個人は物欲の塊です。歩けもしないのに、まだ靴が欲しいのです。死ぬまでに1足も靴を買わなくても不自由しないくらい持ってますがまだ欲しくてたまらないのです。その時々の気分や天候に合わせて、毎日靴を替えます。すると、不思議とやる気が沸いてくるのです。

   「さあ、今日も一日がんばろう」と、、、、

そして時計も好きです。欲しくてたまらない時計はいっぱいあります。只時間を確認するだけならケイタイで十分です。しかし、時計はそうじゃないんです。持っているという喜びがあります。しかも、付けるのは一個なのに、いくつも欲しくなります。しかし、時計は少々高くつきます。

   「死ぬまでにパテックが欲しい」

そんなことを、思っているようでは子供がメンコやビー玉を集めたがる気持ちと変わりませんね。

   ちっとも進歩がありません。やっぱり、欲しいものは欲しいですね。



















 



























































 
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チョットまじめな話
 当社には、なぜか札幌に支店がありました。当の私にも不思議でした。私がまだ営業で、あちこち回っていた頃、どこのお店へ行っても、良く聞かれました。「東京や福岡ではなく、なぜ札幌に支店があるのですか?」と、、、、
初対面の人なら、誰だって疑問に思うと思います。そのたびに、私自身もよく理解していなかったので、なにやら、わかったようなわからないような、訳のわからない返事をしておりました。
実は、昨年の暮れに売買が成立し、やっと肩の重荷が降りましたので、そのことに関し書こうと思います。今から書くことは、たぶんそうであったであろうと思われる私の推察で実際には、そのとき、私は会社に居りませんでしたので大半は想像の話です。それと、わが社の恥をさらすようで、チョットしのびがたいものはありますが、ひとつの区切りとして私も改めて認識しておく必要があると思ったのと、それを何か記録として残しておきたいという思いがありました。

 まず、その最大のなぞである「なぜ札幌なのか?」という点から説明しましょう。

それは、昭和42~43年頃の話しかと思います。私の親父は若く元気でバリバリのときの話です。戦後すぐに会社を創業し商売も軌道の乗っており、すべて順風まんぱんの状態だったと思われます。
 その頃私はまだ学生でしたので何もわかりませんでした。創業当初から当社に在籍されていた方が、大変元気な方で全国アチコチへと出張されていたようです。まったくファッションとは無関係のような方でしたが販売に関しては大へん熱心な方で私も良く覚えております。
その頃は、この業界の様子は今とまったく違いスーパーも量販店もコンビニもなく、今の日本を埋め尽くしている中国製などまったくありませんでした。製造した商品は良い悪いは別にしてスムースに販売できていたようです。チョット良い背広が欲しいと思えば、お誂えするか、百貨店か高級専門店しかない時代でした。
 ただいまと違うのは、都市と地方の格差がものすごく大きく大半の地方の方は都会にあこがれるという社会状況でした。また逆に都会の人たちは地方の人たちに対して「いなかもの」(すみません)扱いし、優越感みたいなものを抱き常に差別意識のような感情を持って接していたようです。

  まるで、今の中国や北朝鮮みたいですね、、

そんな頃、当社は関西を中心に主に西日本の専門店に商品を卸していたようです。都市の一流店になればなるほど、よく売れるのですが競争も激しく値段が非常に厳しいです。親父はプライドの高い人間でしたので商売に行って値切られることを大変嫌がりました。
 製造した商品が100パーセントその年に売れるわけがありません。本来ならば、製造した商品はその年で売り切らねばなりませんが、どうしても残ります。残れば値段を下げねばなりません。わずかな数なら、それでも良いのですが2割も3割も残すと大変です。その頃は、今のやり方と少々違い最後の1点まで適切な利益がないと売らないと言う考えが一般的でした。
 日本がまだ貧しく、今のように物があふれる時代ではなかったのです。今から思えば当たり前ですが、値段というものは、タバコや切手と違い思うようにはいきません。まして、残ったからといって見切るなんてとんでもないことです。
ですから、昨年の在庫をプレスしなおしたり、下げ札を付け替えたりして旧品でないように見せる化粧直しをするのですが、なかなか思うように値段が通らないのです。

   「何や、コレ去年の商品やないか!半値八掛けや!」

といわれ、どうしても値段をたたかれるのです。型も、素材もさほど変わらないのにお得意先でぼろくそに言われ値段をたたかれます。そこでいつも親父は怒っておりました。何とか良い方法がないかと、、

   そのとき親父はひらめいたのです。  (きっと)

都市と地方の大きな格差を利用して新品は都市の洋服屋さんで販売し残りはすべて地方へ持っていくのです。そうすれば、都会の洋服屋さんに対しては毎シーズンすべて今期商品ばかりを販売することとなり、当然値段は通ります。また残った商品はすべて地方の洋服屋さんへ持っていくのです。もちろん、その地方の洋服屋さんには旧品とは言いません。地方のお店は、不思議と都会に対してなにか劣等感的な感情を抱いており、チョット見栄を張ってよい値段で買ってくれるのです。都会の洋服屋には負けられないという対抗意識があったのでしょうね。
 そのようなやり方で7割は都市の店で、残り3割を地方で売り、ありがたいことに100パーセント値段は同じ卸値です。

   その在庫処分の先が北海道だったのです。

今の世の中、多少の地方色はあるものの日本全国みんな同じですが、その頃、北海道は、まるで未開の土地のような扱いだったようです。北海道には失礼ですが在庫処分に適した場所だったのですね。物のないところへ、相手の喜ぶように商品を供給してあげるのですから、お互い利益がある取引です。ただし、遠隔地ですから運賃等多少余分に経費がかかります。

   さらに、もうひとつの訳がありました。

その頃、北海道へ出張で行かれていた、その方がお得意先で良縁に恵まれたのです。定期的に訪問しているうちにご主人と心安くなり、縁談が発生したのです。そして、見合いをされ、お互いにすぐに気に入りその札幌の女性と結婚されたのです。

   縁とは不思議なものですね。

結婚後、その女性を京都へは連れてこずに札幌に居を構え、そこを札幌営業所としてスタートしたようです。もちろん、その家は借家ですが、会社の経費で家を借り、そこへ商品を送り営業所 兼 社宅ですから一挙両得です。その方にとっては家賃がただの新婚ハネムーンです。
 そうして順調なスタートを切ったしだいです。あくまでも、想像ですが、その頃は大変調子が良かったようです。しばらくして、札幌駅の近くにある繊維卸センターの一角に売り物件が出たので、当然すぐに飛びついたのでしょう。
 その頃、繊維卸センターは飛ぶ鳥落とす勢いの繁盛ぶりで、アパレルのほとんどの一流メーカーが入居しておりました。つまり、繊維卸センターに店を構えていることがステータスだったんです。

   ところが、、、

この40~50年で、いろんな変遷があり、世の中が大きく変化し繊維卸センター自体が今の時代に流れに取り残された存在となってしまったのです。その間、当社もいろんな出来事があり、もうそこにいること自体が苦痛な状態となってしまいました。その札幌支店をスタートされた方も15年ほど前に定年で退職され、次に引き継がれた方はものすごく努力家で会社のことばかり常に考えわれわれも感心するほど、がんばっておられたのですが、不幸にも50歳過ぎで病死されました。

   それ以来は転落の一途です。

早く撤退したいと、ずうっと思っておりましたが、親父が札幌に店を出した時の気持ちを思えば、なかなか簡単には手を打てませんでした。それが、やっと昨年の12月に売買契約が成立したのです。

   やれやれです。

親父のあとを継いで何か半分ほど責任を果たしたような気分になりました。在庫処分の先という、きっとその当時はそれでよかったのでしょうが何か正攻法でないように思われます。とはいうものの、私も偉そうなことはいえません。ドンドン繁盛し店を増やしていくならいざ知らず、唯一ある札幌支店を売却し、札幌の市場から撤退したのですから、後ろ向きとしか言いようがありません。
 しかし、この売却益をもって何とか会社を維持し、また世代交代し、将来の方向性を変更するターニングポイントになればと思っております。われわれのような小さな会社でも従業員やその家族、そして、取り巻く関連の企業に、なくてはならない存在として、たとえわずかでも社会的貢献をしなくてはなりません。

会社が長く存続し、100年をめどに老舗企業となるために、その礎となればよいと思っております。また、この札幌支店の話は当社の歴史としてとどめておきたいという気持ちがあったので恥を忍んで私のブログで公表したしだいです。ただし、細かい点は、たぶんそうであったのでは、という想像です。

   つまらない話に、長らくお付き合いくださいました。ありがとうございました。































































































 
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春は曙そして沈丁花
 寒い冬も過ぎ、この時期になると、やっぱり気になるのは桜です。このごろ毎日のニュースで、天気予報以上に重要なのが桜の開花予想です。そして、「桜前線」なる言葉で、いつどこで見るのが最高か、また咲きはじめか、満開か、散りかけか、桜の花のわずかな状況まで詳しく報道されるのです。
外国のことは、よく知りませんが桜だけをコレだけ気にして、詳しく報道する国なんて日本以外にはないのと違うでしょうか?
しかも桜の花は、大変短命です。咲き始めて、満開になり散るまでの間はわずか1週間ほどです。その間に雨が降ったり,風が強かったりしたら最悪です。ところが、この季節は意地悪く割りとよく雨が降り、「春1番」という名の風が吹くのです。
 そして、また不思議なことに散りかけて終わりかけの状態も日本人はすきなのです。普通なら華やかにパーと満開の状態が一番いいように思えるのですが、そうでもないのです。その散りかけの桜に「もののあわれ」を感じるのでしょうね。

   パット咲いてパット散る

そんな桜を日本人は大変すきなんですね。そういう私も実は桜が大好きです。華やかで、わずかの間しか咲かず、すぐ散ってしまう、そういう「せつなさ」が心に響くのでしょう。

 以前にも私のブログで何回も同じようなことを書きましたので、今回はちょっとへそ曲がりかもしれませんが、沈丁花について書きたいと思います。私には悲しいほど草花に関して知識がありませんので早速ネットで調べました。
原産国は中国南部だそうです。日本には、室町時代にはすでに入ってきていたそうです。その最大の特徴は、なんと言ってもあのかぐわしい匂いです。沈丁花のあの独特の匂いは千里離れていても感じられるほどの素晴らしい匂いを発します。千里と書いてありましたが、千里といえばおよそ4000KMです。いくら沈丁花の花の匂いがいいといっても、そんなに遠く離れた所で花の匂いが届くわけが訳がないやろ!!(中国の表現はみんなオーバーです。)
そして、花言葉は「栄光」です。なぜ栄光かは知りませんが、私の沈丁花に対するイメージは「初恋」です。なんと薬にもなるそうです。

私の家の小さな裏庭にも沈丁花の木があります。そして、その花が開花しかけると、えもいわれぬ匂いがするのです。季節が冬から春へ移り行くとき、だんだん夜明けが早くなり、うっすらと朝日が差し掛かり、向こうのほうには、まだかすんだように霧が立ち込め、その木々の間からフット感じる沈丁花の匂いの素晴らしさをほかの何に例えられましょうか?

   春は曙、、、です。

におい立つ沈丁花の香りのファンタジーがうっすらと明るくなりつつある朝開けに春を告げ始めるのです。沈丁花の匂いにきずいたときに、ああ春が来たなあと実感するのです。

   沈丁花は春を告げる花です。

沈丁花のこの素晴らしい匂いは目には見えませんので、どのように言い表せば伝わるのか私には表現することはできません。ただいい匂いです、とそんなありふれた言葉で言い表すような次元の低いものではありません。目に見えないこのかぐわしい沈丁花の匂いを文章でどう表現し、皆様にどこまで伝えられるか、、私の今後の課題です。

 だまされたと思って一度、目をつむって沈丁花の花の匂いをかいでみてください。しかも、できれば早朝がいいです。数秒もしないうちに、あなたを別世界へと運んでくれますよ。それは、心ウキウキするほど嬉しいのに、何か切なく、やるせない、それでいて、楽しいのにフット寂しくて悲しくなる、そんな複雑な、ちょうど初恋のあのあまずっぱい感情の世界へと運んでくれます。

   春はあけぼの、

         そして沈丁花







































 
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映画「少年H」を見て
  先日、映画「少年H」を見ました。封切りまえから気になっていた作品ですが、なんせこの不自由な足ですから、映画館には行けず、やっとDVDが出たので早速借りました。
楽しみにしていたので、もう期待満々です。いつものように、風呂に入って、食事を済ませ気持を穏やかにさせて、ゆったりと観賞しました。
 
舞台は神戸で、戦前、戦後の街の様子が大変うまく再現されていて、面白かったです。主人公は町の洋服の仕立て屋の息子で、Hとはその息子の名前の頭文字です。さすがに神戸の洋服屋らしく、お母さんが編んでくれたエンジ色のセーターの胸に大きくイニシャルの「H」がマークされ大変おしゃれですが戦争中のため、たったそれだけの事でまるで売国奴のように思われ、さらにその家族は以前から敬虔なクリスチャンでスパイではないかと、疑われるのです。戦争が始まったのでアメリカへ帰られたシスターが一枚の絵ハガキを送ってくるのです。それがエンパイヤーステートビルの絵ハガキです。彼も彼のお父さんもアメリカのことは教会を通じて良く知っており、そんなアメリカと戦争をして勝てるわけがないという事をよく解っているのです。しかし悲しいかな戦時下でたとえそのように思っていても口には出せません。誠に恥ずかしく、心の狭い時代だったのですね。
 そんな社会状況で、国民の考え方や生活が一変してしまうという事は、たいへん恐ろしい事であると思います。

 今日、お話ししたい事は、そんな天下、国家を論じるような大きな話ではありません。戦前、戦後の時代の流れに翻弄される、この「少年H」と言う映画を観て、私の子供の頃の近所の二軒の家の、それぞれの家風と言うか、それぞれの家の考え方の違い、又は家の雰囲気と言うか、匂いの違いを思い出したので書こうと思います。

   私の小学校の低学年の頃の話です。

もう全く対照的な二人の同級生の家庭で今から思うと何とも不思議な雰囲気の家でした。決して私の家が普通だったというわけでもないと思いますが、、、、

 その一人は、旧家で、お金持ちで主人はお婆さんでした。そのおばあさんの旦那さんは戦争で亡くなられており、戦後、女手一つで家業を守って来られ、それはそれは厳しい女主人でした。
よくその同級生の家へ遊びに行った記憶があります。
その女主人が番台に座っておられると、もう怖くて怖くれ、何も悪い事をしていないのに、何時怒られるのかとヒヤヒヤし、コソコソといつも隠れたものです。そして、そこの家はどうやら代々女系のようです。その女主人の一人娘が私の同級生の母親です。主人からしてみると、やっと生まれ孫が男の子で、しかも一人息子で、もう大事に大事に、まるで腫れ物に触るかのように育てられ、本当に「ぼんぼん」でした。そしてその同級生のお父さんは、いわゆる養子さんです。あんな怖いお婆さんの、老舗の家に、そのお父さんもよく養子として、来られたなあと、今になったら思いますが、小学生の私には、そんなことまるでわかりませんので、変わった家やなあとしか思いませんでした。

   ある夜の話です。

何の用事でその同級生の家へ行ったのか、覚えておりませんが、七時ごろその友人の家へ行きました。ちょうど食事中の事でした。

   「荒川君がきはったえ」

と、言ってくれたのは同級生のお父さんでした。私が驚いたのは、その食事中の家庭の雰囲気です。お金持ちの立派なお家だったので、たいへん大きく、きちんと整理され掃除も行き届いて入り、居間は大変大きく、その奥に坪庭があり、さらにその奥には離れがありました。その離れの奥には、立派な黒い扉のある大きな蔵がありました。きっとたくさんのお宝があったのでしょうね。
 昭和32−33年の頃なので、まだテレビはありません。
一切会話はなく、お箸が茶碗に当たる音だけが、あちこちから聞こえるだけで、子供乍に私には何か異様に感じられました。とりあえず、食事中は一切しゃべってはいけないのです。

   このお家の決まりなのです。

それだけではありません。もう一つ驚く事がありました。

   それは食事中の席順です。

ひとり息子で一番大事にされていたその同級生が、一番の上座に座っているのです。そしてその横に、おばあさんである怖い怖い女主人です。その下に、お母さんがいます。お母さんの下に上女中と下女中の二人の女中が座っているのです。養子であるお父さんは、一段下の玄関からチョット上がった、その皆の食卓である居間の隣の三畳ほどの板の間で、しかも箱膳で食事をされているのです。それだけではありません。居間には電燈があり暗いながらも、辛うじて食事ができる明るさはあるのですが、その養子であるお父さんの座っておられる場所には電燈がないのです。居間から一段下がった、その薄暗い狭い場所で会話もせずに黙々と、ご飯を食べておられる風景が何とも奇妙で異様な感じがしたのです。

   まるでホラー映画の一場面の様です。

その同級生は、そんな環境で育ち、それはそれは大事に育てられました。頭は良かったのですが、ものすごくわがままで、自分勝手でした。とりあえず、自分さえよかったら、それで良いという人でした。国立大学を現役で受かり、前途洋々たるスタートを切ったのですが問題はそれからです。
 大学を卒業し、一流企業に就職し、我々も、さすがやなあと思っていたのですが、転落はそれからです。その企業を退職し、自分の家業を継がれたのです。何の苦労もないボンボン育ちで一流大学出で、エリート社員が古い体質の、数人の社員の、わずかな、細々とした商売でつないでいる、そんな家業に、いきなり社長になって入ってきても、上手くいくわけがありません。
 結局、その代々続いた老舗の店はわずか数年でつぶれてしまいました。爪に火を点すような思いで、三度のご飯を二度にしてでも、常に家の中の電気を消して歩き、考えられるすべての物に対して節約し、下駄の端が減るのを心配して、あまり出歩かず、そこから出てくる僅かな利益の積み重ねで代々続けてこられた、その商売を、ほんの数年でつぶしてしまったのです。彼は自己破産され、何もかも失い、今はどうされているかは知りません。

 それと対照的な家庭が近所にありました。そこの家はどうやら貧しく家の中は散らかしっぱなしでした。私は、滅多にそこのお家には行きませんでしたが、おじいさんとおばあさんがおられ、貧しい家の子だくさんを象徴するように五人兄弟でした。末の子は、まだ生まれて間もなくギャアギャア泣いており、お母さんの背中に抱っこされ、裏の土間で井戸水を流し、たらいで洗濯せれていました。

   「荒川さんのボンがきはったえ」

と大きな声でお母さんが同級生をよんだのですが、二間しかない家でそんな大声を出す必要がありません。もう、家の中はゴチャゴチャでこんな大人数がどうやって、この狭い二間で寝られるのか不思議でした。居間のちゃぶ台に「蒸し芋」が置いてあったのですが、アット言う間に無くなります。食うか食われるかの世界なので早い者勝ちです。前述の家庭とは大違いで、下品ではありますが、メチャメチャ活気にあふれているのです。畳がアチコチ破れていて、ワラが出ており、それを子供が面白がってむしるのです。それを観て、お母さんは大きな声で怒ります。そんな時、スキを見て下の子は障子に指を突っ込んでゲラゲラ笑って遊んでいます。
 
もう、そんなヒッチャカメッチャカの家の次男として私の同級生は育ちました。家が貧しかったために、彼は高校を出て大阪の繊維会社へ住み込みで就職しました。

決して裕福ではない、しかし愛情あふれる家庭でたくましく育てられ、その同級生は、そこの会社の役員に迄なったのです。人柄も、温厚で人の事をいつも気遣い、今では立派な紳士です。

 私の小学校の頃の、この二つの対照的な家庭に育った二人の同級生の半世紀の生きざまを、この年になると、妙に感慨深いものに感じます。今思う事は、人間に必要なのは家柄や財産ではなく家庭の愛情であると思います。
その貧しい家のお母さんは朝から晩まで働いておられました。もちろん、化粧など一切せず、やや浅黒く、髪の毛も束ねて、後ろでくくってあるだけでした。しかし、パワーに溢れ笑顔がものすごく美しく、魅力的なお母さんでした。

 映画「少年H」をみて、全く違うこの二つの家庭を思い出したのです。


       プライバシーもありこの話はフィクションとノンフィクションを織り交ぜております。
       









































































































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